2016年8月15日月曜日

『ゼロリスクの罠』

掲題の本のタイトルは『ゼロリスクの罠---「怖い」が判断を狂わせる』(佐藤健太郎、光文社新書)だが、此の本の書評が或るホームページで紹介されている。
本来は此の本自体を読むのがベストだろうが、上記の書評だけでも私には充分である。

以下の文章だけでも、私自身大いに反省すべき点が指摘されていて身に染みる。いくつか引用しよう。

・「危険」は実在するが,「安全」は実在するものではない。

・つまり,「安全」とは幻影にすぎないのだ。

・私達はどう考え,どう行動すべきかについて考察するのが本書であるが,その基本思想は「現実を知り,お伽話を排除し,無知による恐怖を取り除く」ということになると思う。

・このようにして、私たちは常に7000ベクレルの内部被爆を受けているのである。このような事実を無視して、放射能を怖がっても意味がないのである。怖がるのは正しい知識を得てからでも遅くないはずだ。

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この書評を読んだだけでも、いかに私(たち)が、己の無知により翻弄されているかが分かる。

事実、当地の新聞には当地のどこそこの放射能線量が何ベクレルかというマップ掲載されていたし、また食品の放射性物質の検査結果表が掲載されていた。

果たして、私(たち)は此の放射能汚染についても、
『お伽噺』に翻弄され無用な恐怖を煽られてはいないか?

『現実( 真の知識 )を知る』ということが如何に大切か、何よりも私(たち)自身にとって。


それを教えてくれる書評である

『空車』(森鴎外)について

私は此の『空車』の後半部分を読むたびに、鴎外の『妄想』に書かれた或る箇所を連想する。その箇所を引用してみよう。(『空車』の前半部分は私は興味がない。)
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(前略)自分は辻に立っていて、たびたび帽をぬいだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大ぜいあったのである。
帽はぬいだが、辻を離れてどの人かのあとについて行こうとは思わなかった。多くの師にはあったが、一人の主にはあわなかったのである。
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此の空車は鴎外の主のメタファーかも知れない。
いずれにしても『空車』の後半の文章は鴎外以外には書けない文章だと私は思っている。

現代日本語で書かれた最高の文章の一つだとも私は思っている。

集合論の初歩的な質問

集合論の初歩的な質問をします。だれかコメントあれば下さい。

竹内外史著『集合とはなにか』(講談社・ブルーバックス)に書かれていることについてです。第3章での、順序数に伴って、できる集合の説明の箇所です。

この本で、順序数3ができるとき、その時点で、『新しく』、出来る集合は、以下と書かれています。(新装版以前の本の101頁の表)

{{1}}, {2}, {0,2}, {1,2}

上記のように書かれています。

しかし、、順序数3ができるとき、その時点で、『新しく』、出来る集合は、上記の集合の他に、下記の集合も、その時点で存在するのではないか私は思います。即ち、

{{1},1}, {2,{1}}, {2,{1},1}, {0,{1}}, {0,{1},1}, {0,2,{1}}, {0,2,{1},1}

たぶん、本のタイプミスのではないか、と私は思っているのですが、私の勘違いかも知れません。この件が、以前より気になっているものですから、訊いておきたいと思ってます。


誰か、コメントあれば、ください。この本は、新装版があり、この新装版では、この箇所が、どのように書かれているかは確認はしていません。

2016年8月10日水曜日

『郵便局』(萩原朔太郎)

私の好きな詩人の一人は萩原朔太郎だ。
彼の作品で、とりわけ好きなものの一つに、『郵便局』という散文詩がある。
以下のように始まる。
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郵便局といふものは、港や停車場と同じく、人生の遠い旅情を思はすところの、悲しいのすたるじあの存在である。(後略)
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私は若い頃、「悲哀:pity」という感情に強く惹かれた。
その件に関しては以前の記事『「獄中記」 (オスカー・ワイルド)』に書いた。
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=1298455732640267465#editor/target=post;postID=2685477677214103278;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=1;src=postname
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私が惹かれた「悲哀:pity」という、いわば文脈に、掲題の詩があった。
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話が飛ぶが、漱石の『三四郎』に、『かわいそうだたあ、ほれたってことよ』というセリフが出てきたと記憶しているが・・・私の記憶違いかも知れない・・・このセリフのネタ元は『Pity's akin to love.』てなコトを私が知ったのは、この頃である。
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pity なる感情こそ、今生で最も崇高な感情だと若い頃の私は信じて止まなかった。
G.マーラーの音楽も然り。
萩原朔太郎の『郵便局』も然り。
O.ワイルドの『獄中記』も然り。
そして此の心情に通底している釋超空の歌・詩も然り。etc etc
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萩原朔太郎に『郷愁の詩人・与謝蕪村』という作品を「愛して止まなかった」・・・あまり好きな言葉ではないが他に変わる日本語がないから使わざるを得ない・・・のも其の頃だ。特に、この作品の序文に私は惚れ込んだものだった。
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現在でも基本的には、この信条(心情)は変わっていない。

2016年8月8日月曜日

『ゲーデル・不完全性定理』(吉永良正著)

講談社・ブルーバックス
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私が、ゲーデルの不完全性定理に興味をもって、初めて買った本が掲題の本だ。

実は私は此の本でカントールの超限基数なるものや連続体仮説等の 「実無限」 の存在を知った。

ゲーデルの不完全性定理の話よりも、カントールの話のほうが私は面白かった。

カントールの超限基数なるものや連続体仮説等の 「実無限」 について、全く無知で、もし、それを知りたかったら、私は此の本を勧める。

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話は飛ぶが、「ラッセルのパラドックス」 という有名なパラドックスがある。

このパラドックスによって、現代数学は未曾有の危機に陥る。

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以下は余談だが、私は面白い話だと思っている。

先ず、ラッセルのハラドックスとは何か?だが、これには数学の素人向けの説明が、いろいろあって、その中に 『村の理髪師のラッセルのパラドックス』 がある。知っている人も多いだろう。
そのパラドックスとは以下のもの。
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ある村に、その村で、ただ一人の理髪師がいて、自分で自分のヒゲを剃らない村人全員のヒゲだけを剃るとする。さて、その理髪師は自分のヒゲを剃るだろうか、剃らないだろうか?

もし剃るとすれば、彼自身は剃らなければならない対象から除外されるので、剃る必要はない。もし、剃らないなら、その対象に含まれるで、剃らなければならない。

さあ、どうする。どうしようか ?! 
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以上が 『村の理髪師のラッセルのパラドックス』 だが、このパラドックスを、或る女学校の生徒たちに紹介した教師がいたそうな。

そしたら、一人の女性徒が立ち上がって、こう言ったそうだ。

『先生、その理髪師が女性なら、なんの問題ないじゃあ、ありませんか』

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尤も、当今はヒゲを剃る女性も居るかもしれないが・・・

2016年8月5日金曜日

『獄中記』(オスカー・ワイルド)

岩波文庫版、阿倍知二訳

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ものもちの悪い私が、大学・学部時代から、現在まで身近においてある本の一つが掲題の本である。昭和42,3年頃、大学の生協で買ったと記憶している。

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何故、此の本を今迄捨てずにきたのか、自分でも、はっきり理由が分からない。

私は自分の専門書を含め、ことあるごとに、本を捨ててきた。

本のみならず、子供の頃の写真や卒論の類等、ほとんど全て捨てた。

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私は妙な性癖があって、身につけるモノは嫌いで、指輪など、はめたことは一度もなく、時計も必要の時以外は手首に着けたこともない。

ネクタイも二本しかなく、その締め方も、父から教えたもらった、一番、簡単な方法のみしか知らない。

今や、其の締め方も忘れているかも知れない。もしかしたら、手が覚えているかも。

飲料水も、昔は、ともかく、現在の好物は水、乃至、さ湯である。

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閑話休題。

私が此の本を買った頃、私は、『哀れ』というモノに異常な関心があった。

それはG.マーラーの音楽・・・特に、交響曲第四番・・・の影響、感化があったからだと思われる。

そういう私の下地 (したじ) が此の本を買わせたと、今から思えば推定できる。
この本の主題は、独断だが、『哀しみ』だからだ。

この本に以下の文章があり、私は当時、この文章に心酔したものだった。
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悲哀とは、愛のほかの如何なる手が触れても血を噴出す傷痕である。否、愛の手がふれる時すらも、痛苦でこそなけれ血ににじむものである。
悲哀のあるところに聖地がある。いつかは人々がこの言葉の意味を解するときもあろう。それを解するまでは、生命についても何物も知らぬのだ。
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また、悲運な運命に遭遇したプルシャ王妃の以下の言葉も、この本に引用されていて、この言葉も私の、お気に入りとなって、その引用箇所に赤線で囲んである。
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悲しみの裡に麺麭(パン)を食みしことなきもの
嘆きつつあかつきを待ち詫びて
真夜中の時を過ぎせしことなきもの
神よ、かかるものは卿を知るあたわず
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このような言葉や文章に私は惹かれた。また此の本に底流している、オスカー・ワイルド自身の「悲しみや哀しみ」に私は共感した、のだろう。

岩波文庫で100頁余りの手ごろさと、阿倍知二も訳も私は気にいったのだった。

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この本で思い出がある。

私が通っていた大学では、大学三年のときだったと記憶しているが、工場実習というものがあった。実習先は或る電気製造会社だった。その在る場所は・・・現在どうなっているか知らないが・・・東上線の志木という所だった。

私は池袋駅から志木まで、その会社で電車で通った。確か、その工場実習は一か月だったと思う。

その電車での行き帰りに私は此の本を読んだ、という記憶がある。

だから、東上線とか志木とか耳にすると私は此の本を連想する。

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この本の定価は星印一つである。

今や、この岩波文庫は黄ばんでいる。

思えば、半世紀ほどの付き合いになる。

『東京日記』(内田百閒)

三島由紀夫は内田百閒の小説を評して『俳画風の鬼気』と言っている。
事実、『東京日記』も、そのように評してもよいだろう。
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この小説は23の短篇によつて構成されている。
その、いずれの話も、なんでもない「日常性」のなかで、「私」が体験する、「非日常性」である。 幽霊や鬼婆が出てくるわけでもない。
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私は以前の記事(私のブログの「雑感」で『日常性の中の不条理』について書いた。
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=6510294281337842087#editor/target=post;postID=1134433467278334483;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=0;src=postname
この記事で『NHKラジオの日曜名作座という番組で、百鬼園夜話と題された語りが放送された』と書いたが、まさに、『東京日記』のいずれの話も、「私」が体験する、『日常性の中の不条理』である。
その『不条理性』は、「私」だけが体験するもので、悪夢、というより、一種の「拠り所の無さ」の体験である。
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私自身が、よく見る夢に、「自分が何処に居るのか分からない」とか「自分の行く場所が分からない」という、或る「拠り所のなさ」で不安な体験をすることがある。これは夢なんだと夢のなかで思っているときもある。
このような体験は精神分析上で、何か説明できるのかどうか私は知らないが、ともかく私は、私自身の体験として、自身の「拠り所のなさ」を実感する場合が多々ある。
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この『東京日記』の、どの話も、「私」という者の「拠り所のなさ」と言えるだろう。
( 夏目漱石の『夢十夜』の話と共通点があるかも知れない。しかし『夢十夜』よりも、内田百閒の世界は、より「曖昧」で、三島由紀夫が評したように「俳画風」である。)
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そういう意味で、特に私が面白いと思うのは (その8) の話。
この話に登場する「女」は、落語の「むじな」ようでもあり、また、『思い出そうとしても、どうしても思い出せない「女」でもある。小泉八雲の『怪談』をも連想させる。
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ちなみに、三島由紀夫が、『私にはいまだに怖いのは (その16) のトンカツ屋の話』だそうである。