岩波文庫版、阿倍知二訳
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ものもちの悪い私が、大学・学部時代から、現在まで身近においてある本の一つが掲題の本である。昭和42,3年頃、大学の生協で買ったと記憶している。
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何故、此の本を今迄捨てずにきたのか、自分でも、はっきり理由が分からない。
私は自分の専門書を含め、ことあるごとに、本を捨ててきた。
本のみならず、子供の頃の写真や卒論の類等、ほとんど全て捨てた。
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私は妙な性癖があって、身につけるモノは嫌いで、指輪など、はめたことは一度もなく、時計も必要の時以外は手首に着けたこともない。
ネクタイも二本しかなく、その締め方も、父から教えたもらった、一番、簡単な方法のみしか知らない。
今や、其の締め方も忘れているかも知れない。もしかしたら、手が覚えているかも。
飲料水も、昔は、ともかく、現在の好物は水、乃至、さ湯である。
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閑話休題。
私が此の本を買った頃、私は、『哀れ』というモノに異常な関心があった。
それはG.マーラーの音楽・・・特に、交響曲第四番・・・の影響、感化があったからだと思われる。
そういう私の下地 (したじ) が此の本を買わせたと、今から思えば推定できる。
この本の主題は、独断だが、『哀しみ』だからだ。
この本に以下の文章があり、私は当時、この文章に心酔したものだった。
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悲哀とは、愛のほかの如何なる手が触れても血を噴出す傷痕である。否、愛の手がふれる時すらも、痛苦でこそなけれ血ににじむものである。
悲哀のあるところに聖地がある。いつかは人々がこの言葉の意味を解するときもあろう。それを解するまでは、生命についても何物も知らぬのだ。
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また、悲運な運命に遭遇したプルシャ王妃の以下の言葉も、この本に引用されていて、この言葉も私の、お気に入りとなって、その引用箇所に赤線で囲んである。
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悲しみの裡に麺麭(パン)を食みしことなきもの
嘆きつつあかつきを待ち詫びて
真夜中の時を過ぎせしことなきもの
神よ、かかるものは卿を知るあたわず
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このような言葉や文章に私は惹かれた。また此の本に底流している、オスカー・ワイルド自身の「悲しみや哀しみ」に私は共感した、のだろう。
岩波文庫で100頁余りの手ごろさと、阿倍知二も訳も私は気にいったのだった。
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この本で思い出がある。
私が通っていた大学では、大学三年のときだったと記憶しているが、工場実習というものがあった。実習先は或る電気製造会社だった。その在る場所は・・・現在どうなっているか知らないが・・・東上線の志木という所だった。
私は池袋駅から志木まで、その会社で電車で通った。確か、その工場実習は一か月だったと思う。
その電車での行き帰りに私は此の本を読んだ、という記憶がある。
だから、東上線とか志木とか耳にすると私は此の本を連想する。
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この本の定価は星印一つである。
今や、この岩波文庫は黄ばんでいる。
思えば、半世紀ほどの付き合いになる。